東京地方裁判所 平成3年(合わ)105号 判決 1993年1月11日
主文
被告人を懲役七年に処する。
未決勾留日数中三七〇日を刑に算入する。
理由
(犯行に至る経緯)
被告人は、台湾で出生したが、Aと結婚した実母に呼ばれて昭和六一年一一月来日し、Aと養子縁組をした。平成元年三月中学校を卒業後、飲食店等でアルバイトをして生活していたところ、平成三年の二月下旬ころ、中国系マレーシア人である本件の被害者のB(以下、「被害者」ともいう。)がマスターをしていた新宿区内のクラブ「甲野」に勤めた。その際、被告人は、被害者から一〇万円を借り受けたが、五日間働いただけで、同店を辞めてしまつた。
その後、被告人は、同年四月一七日から、新宿区内のCが支配人をしていたクラブ「乙山」で働くようになつた。しかし、右一〇万円の借金を返済しないままでいたため、同年五月二日午前三時ころ、被害者は、「甲野」の従業員のI及びDを伴つて「乙山」に赴き、同店で勤務中の被告人を同店前に呼び出して借金の返済を迫つた。被告人は、返済の猶予を願つたが、被害者はこれを聞き入れず、被告人の顔面を殴打するなどの暴行を加えた。そのころ、その場に来たCは、被告人から事情を聞き、被告人が五月八日に借金を返済すること及びその返済をCが保証することで、その場を一応収めたが、被告人は、先に暴行を受けたことの報復として、被害者の顔面を一回殴り付け、さらに、店内から文化包丁を持ち出し、これを被害者に示して脅かしたが、「乙山」の店員らに制止された。
被害者らが帰つてから、Cは、自己の店の前に数人で押し掛けて営業を妨害したことに対し、被害者に文句を言つて謝罪させることなどを企て、店内から、果物ナイフを持ち出し、被告人を誘い、被告人も、自ら店内の文化包丁を持ち出し、お絞りで刃の部分を包み上衣の内ポケット内に隠し持ち、二人で「甲野」に向かつた。
Cは、「甲野」店内において、被害者に対し、店に数人で押し掛けて来て営業を妨害したことに抗議し、持つてきた刃物をちらつかせて脅すとともに、仲間を数人呼び寄せるなどし、その中には凶器を隠し持つ者もいたところから、被害者はひたすらCに謝罪し、また、和解を求めるために、C及び被告人とともに何度か乾杯をした。その後、C及び被告人は、加勢に来た者らを店外のエレベーターまで見送り、再び店内に戻つた。
(犯罪事実)
被告人は
第一 平成三年五月二日午前四時三〇分ころ、東京都新宿区《番地略》丁原ビル六階クラブ「甲野」店内において、自分に背を向けて立ち、Cらと話をしていたB(当時二七歳)の後ろを通り過ぎようとしたところ、同人が片足を後ろに引いて、向きを変えようとしたので、同人が自己を殴ろうとしているものと誤信し、自己の身体を防衛する目的で、と同時に、同人に対する憤満の情が高まり、とつさに、同人を携帯中の文化包丁で突き刺して殺害しようと決意し、防衛の程度を超えて、上衣の内ポケット内に隠し持つていた文化包丁(刃体の長さ約二〇・九センチメートル)で、同人の背後から、その背部を一回突き刺して右肺、気管、心膜、大動脈を損傷する背部右側刺切創の傷害を負わせ、よつて、同日午前四時五五分ころ、同区西新宿六丁目七番一号東京医科大学病院において、同人を右肺及び大動脈損傷に基づく失血により死亡させて殺害し
第二 業務その他正当な理由による場合でないのに、同日午前四時三〇分ころ、前記クラブ「甲野」店内において、前記文化包丁一丁を携帯した
ものである。
(証拠の標目)《略》
(補足説明)
一 弁護人は、公訴事実第一の殺人について、「被害者が被告人を攻撃するのではないかと思い、これを防御するため、とつさに右手を前に出したところ、たまたま握つていた包丁が、被害者の背中に突き刺さつてしまつたにすぎず、殺害する意思など全くなかつた。」との被告人の弁解を基に、被告人には、被害者を殺害しようとする意図が全くなかつたばかりか、そもそも、被害者に対して何らかの危害を加える意思すらなかつたのであると主張しているので、この点につき、説明を加える。
1 はじめに、被告人が故意に被害者の背中を文化包丁で突き刺した点につき、説明する。
(一) 証人Eの当公判廷における供述及びEほか一名作成の鑑定書(甲52)によると、被害者の致命傷となつた創傷は、被害者の背部右側の刺切創であり、その創洞の深さは約一七センチメートルにも及び、皮下、筋肉組織を創傷し、右第五肋骨、同第五肋間筋肉、同第六肋骨を損傷して右胸腔内に入り、右肺、気管、心膜、大動脈を損傷するというものであることが認められる。したがつて、特段の事情のない限り、本件の凶器である文化包丁は、相当強力な外力を加えられて被害者に突き刺さつたものと推認されるところである。
(二) 一方、包丁が突き刺さつたときの状況について、目撃者である証人Fは、「被害者が刺されたとき、被告人が刃物を持つているのは見えなかつた。被告人は、勢いよく前の方へ向かつて行つた。体重を掛けるようにぶつかつた。」旨、同じく目撃者Gは、「突然、被告人が、被害者の後ろから近寄つて来た。刺したところは見ていないが、被告人は、その後、包丁を抜き取つた。」旨それぞれ供述している。以上によれば、包丁が突き刺さつた際に、被告人は、積極的に被害者に向かつて前へ進み出たと認めるのが相当である。この点、被告人は、公判廷において、「被害者の背後を通り抜けようとしたとき、被害者が左足を後ろに引いて左の方向に向きを変えようとしたので、被害者が自分を殴ろうとしていると思つた。このとき、左の内ポケットに入れていた包丁が重いため、これを右手に握つていたのであるが、被害者の攻撃を防ごうとして、反射的に両手を自分の顔の前に上げた。すると、包丁が被害者に刺さつてしまつた。」という趣旨の供述をしている。しかし、この被告人の供述は、右刺切創の創洞が水平に入つていること、その下創角は足底から一三七・五センチメートルであること(前記鑑定書等による。)と明らかに矛盾するなど極めて不自然であつて、到底信用できない。
(三) 以上を総合すれば、被告人は、故意に被害者の背部を本件文化包丁で突き刺したものと認めるのが相当である。なお、被告人が故意に被害者を包丁で刺したことを認めている被告人の検察官に対する供述調書は、証人Hの当公判廷における供述などからすると、特段信用性を疑わしめる事情も存しないところ、以上の認定とも合致し、信用できるものと認められる。
2 次に、被告人が文化包丁で被害者を突き刺すときに、確定的殺意を有していたと認めた理由について説明する。
(一) まず、本件犯行に使用された凶器である文化包丁は、刃体の長さが約二〇・九センチメートルの鋭利かつ頑丈な刃物であり、強力な殺傷能力を有するものであること、一方、被告人は、これを自ら「乙山」店内から持ち出したもので、右刃物の殺傷能力を十分に認識していたこと、また、本件傷害の部位は、被害者の背部の右側という身体の枢要部分であり、生じだ傷害の程度も、創洞が深さ約一七センチメートルにも及び、右肺、気管、心膜、大動脈を損傷するという極めて重大なものであり、被害者は、右肺及び大動脈損傷に基づく失血により死亡していることなどの諸事実が、関係各証拠により認められる。
(二) 次に、犯行態様について見るに、前述のように、被告人は、被害者の背後から、被害者の身体が十分に見える状況で、これに向かつて進み出るようにして被害者を突き刺しているのであるから、被告人が被害者の背中を目掛けて突き刺したものと認めるのが相当である。この趣旨を自白する被告人の検察官に対する供述調書も信用できる。また、この際、被告人は、「お前の母親を姦淫してやる。」という相手に対する憎しみが込められた言葉を発していることが認められる。
(三) さらに、被告人が被害者を包丁で突き刺すに至つた動機・目的について検討するに、被告人は、公判廷において、ほぼ以下のように述べている(なお、検察官に対する供述調書中でも、ほぼ同様の経緯を述べている。ただし、大変興奮して、力任せに包丁を被害者の背中に突き刺した旨述べて、故意に突き刺した事実については認めている。)。
「被害者が、他の従業員二人に話をして、その従業員らが奥の方に走つて入つたので、何かけんかに使う道具を持ち出すのではないかと思つた。店を出ようとして、被害者の立つているすぐ後ろを通り過ぎようとしたところ、被害者が左足を後ろに引いて左の方に向けを変えようとしたので、被害者から殴られると思つて、防ごうとして、反射的に、両手を自分の顔の前に上げると、包丁が被害者に刺さつてしまつた。」
まず、被告人が言うところの二人の従業員とは、DとIであると解されるが、右両名の司法警察員に対する各供述調書には、被告人が述べるような右両名が店の奥の方に入つて行くような状況があつたことについては何ら触れられていない上に、F、G、Cの各公判供述からもそのような状況は全くうかがわれず、わずかにJが被告人の右供述に若干添うかのような公判供述をしているのみである。以上によれば、少なくとも、被告人が述べるように二人の従業員が店の奥にある調理場に走つて入つて行くような緊迫した状況はなかつたものと認められる。
次に、被害者が左足を後ろに引いて向きを変えようとしたとの点については、Jが、被害者が左回りに後ろへ向きを変えようとした旨、Fが、被害者が右足を少し動かして右の方を向こうとした旨それぞれ公判廷で供述している。後者の供述は、被告人らの供述と向きを変える方向は異なるものの、向きを変えようとしたという点では、被告人らの供述を支えるものと解されるので、結局、被害者は片足を後ろに引いて向きを変えようとしたものと認めるのが相当である。
さらに、被告人が、この被害者の動作を、被告人を殴るために向きを変えようとしたものと考えたという点については、被告人は、少し前に「乙山」前で被害者から顔面を殴打されるなどの暴行を受けており、とつさに、被害者から殴られると考えることもあながち不自然なこととは言えない。また、他に、被告人が被害者から殴られると思つたという弁解を排斥するに足りる証拠も存在しないから、この点についても、被告人の述べるように、被告人は、被害者の前記の動作を見て、殴られるものと考えたと認めるのが相当である。
以上を前提に被告人が被害者を突き刺した動機・目的について更に検討するに、前述のとおり被告人は、被害者から殴られると思い、とつさに被害者を突き刺しているのであるから、その時、被害者から殴られるのを防ぐ意思があつたことは否定できない。ただ、被害者の攻撃を防ぐというだけであれば、包丁まで持ち出して同人の背中を突き刺す必要がないことは明らかであるところ、にもかかわらず、被告人はそのような行為に及んでいること、また、被告人は少し前に被害者から顔面を殴られるなどの暴行を受けていること、被告人は「乙山」前でも被害者に対し文化包丁を示して脅すなどしていること、Cに誘われたとはいえ、Cが刃物を携帯しているのを見て、自らも本件凶器となつた文化包丁を持ち出して「甲野」まで来ていることなどの事情を総合すると、右の防衛の意思とともに、さらに、借金の返済問題にからみ、先に被害者から暴行を受けたために抱くに至つた、同人に対する憤満の情が高まり、被害者を突き刺すに至つたものと認められる。
なお、検察官は、本件は、被害者から面子を潰されたとの憤激に駆られていた被告人が、刃物を携えて「甲野」に赴き、Cが呼び集めた多数の者を去らせた後に、面子を回復するために行つた犯行である旨主張するが、そこまでの計画性を認める証拠は十分ではない。
(四) 以上述べたところから、被告人の殺意について検討するに、凶器の殺傷能力、傷害の部位・程度、犯行態様からすると、被告人の本件行為は、被害者を死亡させる蓋然性が極めて高度のものであり、被告人は自己の行為の危険性を十分に認識しながら本件犯行に及んでおり、かつ、その時、被害者に対して憤満の情を抱いていたのであるから、被害者に殴られると思つた被告人がこれを防ぐために本件行為に出たとの一面があることを考慮しても、なお、被告人は、とつさに、被害者に対する確定的殺意を抱くに至つたものと認めるのが相当である。
二 弁護人は、被告人の本件行為につき、仮に何らかの暴行の意思があつたとしても、それは被害者による急迫不正の侵害に対する防衛の目的で行われたものであるから、正当防衛として違法性が阻却されるか、もしくは誤想防衛として故意が阻却される旨主張するので、この点について説明を加える。
1 被告人の本件突き刺し行為が確定的殺意をもつてなされたことは、既に述べた。したがつて、弁護人の主張は、この点で前提を若干異にすることになるが、ともかく、以下、まず、正当防衛の成否について検討する。前述のとおり、被害者は、被告人が被害者の後ろを通り過ぎようとしたときに、片足を引いて向きを変えようとしたことが認められる。しかしながら、被害者の行為は、単にそこまでであり、それ以上に被告人に殴り掛かろうとの気配を示したわけでなく、また、当時、その場の状況は、鎮静化に進み、被害者もその場の収拾に腐心していたことが認められる上、被害者が片足を後ろに引く直前、被害者はCらと話をしており、そもそも被告人が自分の後ろを通ろうとしていることに気付いていなかつたと認められるから、この被害者が片足を引いた行為も、被告人を殴るための準備の動作とは到底認められない。
したがつて、本件では、急迫・不正の侵害が客観的に存在しなかつたものであるから、正当防衛は成立しない。
2 次に、誤想防衛について検討するに、前述のとおり、被告人は、被害者が片足を引いて向きを変えようとしたときに、被害者から殴られるものと考えたことが認められる。いまだ殴り掛かる気配すらないのにかかわらず、殴られるものと考えたのは、軽率な判断と言わなければならないものの、被告人は、客観的に、急迫・不正の侵害が存在しないのに、それが存在するものと誤信したものと認めるのが相当である。
そして、被告人は、この被害者の行為に対して、被害者の背中を文化包丁で突き刺して被害者を殺害しているが、その動機・目的は、前述のとおり、被害者から殴られるのを防ぐ、つまり、自己の身体を防衛するためと、被害者に対する憤満の情の高まりからであり、防衛の意思も肯定することができる。
ただ、被告人は、被害者からの素手による攻撃を誤信していたにもかかわらず、確定的殺意をもつて、文化包丁(刃体の長さ約二〇・九センチメートル)で被害者の背中を相当強く突き刺しており、この行為は被告人が誤信した急迫・不正の侵害に対する防衛行為としては、明らかにその程度を大幅に超えた行為であり、また、被告人自身自己の行為の意味を十分認識し、この点に錯誤はないから、誤想防衛として故意を阻却することはない。もつとも、いわゆる誤想過剰防衛に該当するが、既に述べてきた事情に鑑み、刑法三六条二項を適用して刑を減免することはしない。
(法令の適用)
罰条
判示第一の行為 刑法一九九条
判示第二の行為 銃砲刀剣類所持等取締法三二条三号、二二条
刑種の選択
判示第一の罪 有期懲役刑を選択
判示第二の罪 懲役刑を選択
併合罪の処理 刑法四五条前段、四七条本文、一〇条、四七条ただし書(重い判示第一の罪の刑に加重)
未決勾留日数の算入 刑法二一条
訴訟費用の不負担 刑訴法一八一条一項ただし書
(量刑の事情)
本件は、既に述べた経緯で、被告人が殺意を持つて被害者の背中を文化包丁で突き刺し、同人を失血死させたという殺人の事案及び右文化包丁を違法に携帯したという銃刀法違反の事案である。
被告人において、被害者の攻撃を誤信したことは、相当性を欠くものである上、防衛の意思があつたにしても、と同時に、被害者に対する憤満の情も伴い、同人の素手による侵害しか誤信していないにもかかわらず、確定的殺意を持つて、文化包丁で被害者の背中を突き刺すという、誤信した侵害に対して許されるであろう防衛の程度をはるかに超えた行為に及んでおり、誤想過剰防衛の範疇に入るとはいえ、犯情は決して良くなく、したがつて、刑の減軽もしなかつたものである。
犯行態様も、鋭利な文化包丁で、何らの攻撃も予期していなかつたと認められる被害者の背後から、その背中を一回、深く突き刺したというもので、極めて残忍である。
さらに、被告人の本件犯行により、人の貴重な生命が奪われるという重大な結果が生じている。被害者は、いまだ二七歳の若さで、妻らの遺族を残して生命を絶たれたものである。妻が抱く被害感情は厳しく、被告人の母親からの謝罪や金銭提供の申し出を峻拒している状況にある。
以上の事情によれば、被告人の刑事責任は極めて重大である。
他方、被告人は、あらかじめ刃物を携帯していたとはいえ、当初から被害者を殺傷する計画を有していたとは認められず、被害者の向きを変えようとした動作がきつかけとなつて本件犯行に及んだものである。また、被告人は、犯行後、両親に付き添われて警察に出頭しており、公判廷において犯行の一部を否認しているものの、拘置所内で被害者の冥福を祈るなど反省の情を示していること、若年であり、犯行時においては少年であつたこと、前科、前歴がないことなどの被告人にとつて有利な事情も存在する。
しかし、これらの有利な事情をできる限り斟酌しても、主文の刑に処することはやむを得ないと考える。
(裁判長裁判官 中川武隆 裁判官 柴山 智)
裁判官 青柳 勤は転補のため署名押印することができない。
(裁判長裁判官 中川武隆)